はじめに
H.M.、本名ヘンリー・グスタフ・モレイゾン(Henry Gustav Molaison)は、神経科学の歴史において最も知られた患者の一人です 1。彼の症例は、私たちの脳がどのように記憶を司り、そして記憶というものが人間の存在にとっていかに根源的であるかという理解に、革命的な進歩をもたらしました。一つの手術が彼の人生を一変させると同時に、科学の世界に前例のない扉を開いたのです。彼の物語は、悲劇的な運命と、そこから生まれた偉大な発見の物語と言えるでしょう。H.M.の経験は、記憶が脳内でどのように組織されているかに関する基本的な原則を確立する上で、決定的な役割を果たしました 3。
本記事では、ヘンリー・モレイゾン、通称H.M.の生涯、彼が受けた手術、その結果として生じた特異な記憶障害、そして彼の協力によって得られた数々の科学的知見について、主に国外の学術文献や研究報告 1 を参照しつつ、専門的な知識がない読者にも分かりやすい言葉で解説します。また、この記事が「H.M.症例」「記憶の仕組み」「脳科学の進歩」といったキーワードで情報を求める方々にとって、信頼できる情報源となるよう、検索エンジン最適化(SEO)にも配慮しています。
彼は新しい記憶を形成する能力を失い、「永遠の現在」とも呼べる時間の中に生きることになりました 8。しかし、そのH.M.の存在自体が、私たち自身の記憶がいかに貴重であり、自己という感覚を形成する上でどれほど重要であるかを、痛切に教えてくれます 8。H.M.の症例は、単に医学的な記録や脳機能の局在に関する知見を超えて、人間存在とは何か、意識とは何か、そして記憶とアイデンティティがいかに深く結びついているかといった、より根源的で哲学的な問いをも私たちに投げかけます。彼が日々の経験を積み重ねて自己の物語を更新していくことができなかったという事実は、記憶が自己認識の連続性にとって不可欠であることを示唆しています。このことは、科学的発見がしばしば予期せぬ出来事や個人の大きな犠牲の上に成り立つという現実、そして医学研究における倫理と進歩のバランスについて深く考えるきっかけを与えてくれます。


第1章:ヘンリー・モレイゾンとは?- その人生と運命を変えた手術
ヘンリー・グスタフ・モレイゾンは、1926年2月26日にアメリカ合衆国コネチカット州マンチェスターで生を受けました 1。彼のその後の人生を大きく左右することになる悲劇の始まりは、幼少期に遡ります。7歳(一部資料では9歳)の時に自転車事故に遭い、頭部を強打したことが、後に彼を苦しめる難治性のてんかんの原因と考えられています 1。
10歳頃から軽微な発作が現れ始め、16歳になる頃には、生活を脅かすほどの大発作へと症状が悪化していきました 1。当時利用可能だった多量の抗てんかん薬を服用していたにもかかわらず、彼の発作は制御不能な状態が続き、日常生活を送ることや仕事を続けることが次第に困難になっていきました 1。27歳を迎える頃には、彼の生活はてんかん発作によって著しく損なわれ、普通の生活を送ることができない状態にまで追い込まれていたのです 1。
1953年、当時27歳だったH.M.は、最後の望みを託してハートフォード病院の脳神経外科医ウィリアム・ビーチャー・スコヴィル医師(Dr. William Beecher Scoville)の診察を受けました 1。スコヴィル医師は、H.M.のてんかんの焦点が脳の左右両半球の内側側頭葉(medial temporal lobes)にあると判断し、これらの部位を外科的に切除するという、当時としては極めて実験的な治療法を提案しました 1。この手術では、記憶に重要な役割を果たすとされる海馬(hippocampus)の前方約3分の2、海馬傍回皮質(parahippocampal cortex)、嗅内皮質(entorhinal cortex)、梨状皮質(piriform cortex)、そして扁桃体(amygdala)の大部分を含む、内側側頭葉の広範な領域が両側性に切除されました 1。
この大胆な手術は、H.M.を長年苦しめてきたてんかん発作の抑制という点では、部分的な成功を収めました 1。しかし、その代償はあまりにも大きく、予期せぬ深刻な副作用として、H.M.は新しい記憶を形成する能力(記銘力)をほぼ完全に失ってしまったのです 1。手術直後から、彼は日々の出来事をほとんど覚えていられなくなり、彼の人生は一変しました 2。
この出来事は、当時の医学的知識の限界を浮き彫りにするとともに、治療困難な疾患に対する最後の手段としての実験的治療が抱える倫理的なジレンマを象徴しています。H.M.のてんかんは既存の薬物療法では制御できず、彼の生活の質(QOL)は著しく低下していました 1。スコヴィル医師による手術は、他に有効な治療法が見当たらない中での「最後の望み」であった可能性があります。しかしながら、内側側頭葉、とりわけ海馬が記憶において果たす正確な機能は、当時まだ十分に解明されていませんでした 5。その結果、記憶能力に対するこれほど壊滅的な影響は、完全には予期されていなかったのです。この事実は、患者のQOL向上を目指す医療行為が、未知のリスクを伴う可能性、そしてそのリスク評価が、その時々の科学的知見のレベルに大きく依存することを示しています。重度のてんかんという病状が、実験的な手術という選択につながり、その結果として内側側頭葉の広範な切除が行われ、重篤な記憶障害が引き起こされたという一連の流れは、特定の脳部位が特定の認知機能にとっていかに不可欠であるかを、極めて劇的な形で示すことになりました。
第2章:失われた記憶、残された記憶 – H.M.が示した記憶の多様性
H.M.の手術がもたらした最も顕著な変化は、重度の前向性健忘(anterograde amnesia)でした 1。これは、手術後に新たに経験する出来事や出会う人々、学習する情報を長期的に記憶に留めておくことができなくなる状態を指します。彼にとって、新しい記憶は数秒から数十秒、長くても数分程度しか持続せず 1、何かに注意を向けている間は保持できても、その注意が別のものに移ると、直前のことさえもきれいさっぱりと忘れてしまうのでした 2。例えば、昼食に何を食べたかを食後すぐに思い出せなかったり、毎日顔を合わせる研究者の名前や顔すら覚えられなかったりしたのです 6。これは、彼が新しいエピソード記憶(個人的な体験に関する記憶)や意味記憶(一般的な知識や事実に関する記憶)を形成する能力を失ったことを意味していました 1。
さらに、H.M.は中程度の逆行性健忘(retrograde amnesia)も示しました 1。これは、手術以前に獲得していた記憶の一部が失われる状態です。彼の場合、手術前の数年間、具体的には1年から2年、長いものでは11年前に遡る期間の出来事をほとんど思い出すことができませんでした。この記憶喪失には時間的な勾配があり、手術に近い時期の記憶ほど失われ方が顕著でした 1。しかしながら、幼少期の記憶や、手術よりもずっと以前に形成された遠隔記憶は比較的よく保たれており、アクセス可能だったのです 1。
H.M.の逆行性健忘の原因については、単純に手術による脳組織の損傷だけでは説明が難しい側面も指摘されています。一部の研究では、海馬の損傷に加えて、手術前に長期間服用していた抗てんかん薬の影響や、頻繁に繰り返されたてんかん発作自体が、既存の記憶の維持や想起に影響を与えた可能性が示唆されています 5。このことは、記憶障害の原因を特定する際には、単一の要因だけでなく、複数の要因が複雑に絡み合っている可能性を考慮する必要があることを示しています。記憶の形成(記銘)と、既に形成された記憶の維持・想起は、脳内で異なるメカニズムに基づいているか、あるいは同じ脳構造が関与するとしても、異なる神経プロセスが働いている可能性が考えられます。また、この時間的勾配のある逆行性健忘は、海馬が記憶の「一時的な」保管場所として機能し、時間をかけて記憶情報が大脳皮質などのより永続的な貯蔵場所へと転送され、固定化されていくという「システム固定説(systems consolidation theory)」を支持する重要な証拠の一つともなっています 1。
しかし、H.M.の記憶能力が全て失われたわけではありませんでした。驚くべきことに、いくつかの種類の記憶機能は保持されていたのです。
- 短期記憶・作業記憶(ワーキングメモリ):H.M.は、情報を短時間保持し、それを操作する能力は比較的正常に機能していました 1。例えば、提示された数字を逆から読み上げる課題(数字の逆唱課題)の成績は、健常な対照群と比較しても遜色なく、他人と会話を続けることもできました 1。これは、短期記憶や作業記憶のプロセスが、内側側頭葉の構造に必ずしも依存していないことを示唆しています 1。
- 手続き記憶(スキル学習):H.M.の症例で最も衝撃的だった発見の一つは、彼が新しい運動技能や習慣を学習し、それを保持することができた点です 1。
- その代表例が、神経心理学者のブレンダ・ミルナー博士が行った鏡映描写課題(mirror-drawing task)です。これは、鏡に映った像だけを見ながら、星形などの図形を鉛筆でなぞるという課題です。H.M.は、この課題を練習するたびに、間違いが減り、描画にかかる時間も短縮するなど、明確な上達を見せました。しかし、彼自身は、以前にその課題を行ったこと自体を全く覚えておらず、毎回新しい課題として取り組んでいるかのような反応を示したのです 4。
- この事実は、私たちが意識的に「覚えている」と感じる記憶(宣言的記憶)と、自転車の乗り方や楽器の演奏のように、言葉で説明するのは難しいが体で覚えているような記憶(非宣言的記憶、その一種が手続き記憶)が、脳内で異なる神経システムによって処理されていることの強力な証拠となりました 4。
- プライミング効果:事前に提示された情報(例えば、ある単語や絵)が、後の課題の成績を無意識のうちに向上させる現象をプライミング効果と呼びます。H.M.においても、このようなプライミング効果が観察されました 4。例えば、以前に見せた単語の断片を提示すると、初めて見る単語の断片よりも正しく単語を完成させやすいといった現象です。これも非宣言的記憶の一形態と考えられています。
- 限定的ながらも新しい情報の断片的獲得:非常に稀ではありますが、H.M.が手術後に有名になった人物の名前(例えば、ジョン・F・ケネディ大統領)を認識したり 8、かつて住んでいた家の間取り図を驚くほど正確に記憶から描いたりすることがあったと報告されています 18。これらの現象は、完全に解明されてはいませんが、手術でわずかに残存した内側側頭葉の組織が関与した可能性や、あるいは宣言的記憶システムとは異なる、非常にゆっくりとした学習経路が存在する可能性などが示唆されています 8。
これらの発見をまとめたものが以下の表です。
表1:H.M.の記憶障害と保持機能の概要
記憶の種類 | H.M.における状態 | 関連する脳部位 (推定) | 具体例 |
前向性宣言的記憶 (エピソード記憶、意味記憶) | 重度障害 | 内側側頭葉 (海馬、嗅内皮質など) | 新しい出来事・人名・事実を覚えられない |
逆行性宣言的記憶 | 中程度障害 (時間的勾配あり) | 内側側頭葉 (想起に関与) | 手術前数年間の記憶喪失 |
短期記憶/作業記憶 | ほぼ正常 | 前頭前皮質など (内側側頭葉は必須ではない) | 会話の維持、数字の短期保持 |
手続き記憶 (非宣言的記憶) | 正常 | 大脳基底核、小脳、運動皮質など | 鏡映描写、運動技能の習得 |
プライミング (非宣言的記憶) | 正常 | 新皮質など | 単語断片完成課題 |
この表は、H.M.の症例が「記憶は単一のものではない」という画期的な考え方をもたらしたことを視覚的に示しています。障害された記憶と保持された記憶を対比することで、異なる種類の記憶が異なる脳のシステムに基づいているという核心的な発見を明確に理解することができます。
H.M.の症例は、それまで主流だった「記憶は単一の能力である」という考え方を根本から覆し、「複数の記憶システム」が存在するという、現代の記憶モデルの基礎を築きました。彼が新しいエピソードを全く記憶できないにもかかわらず 1、新しい運動スキルを学習できるという事実 5 は、これらの記憶が異なる脳のメカニズムに基づいていることを明確に示しています。この「解離(dissociation)」と呼ばれる現象の発見は、記憶研究におけるパラダイムシフトを引き起こしました。それ以前は、記憶は脳全体に漠然と分散している、あるいは単一の機能であると考えられていましたが、H.M.の研究は、特定の脳領域が特定の種類の記憶処理に特化していることを強く示唆したのです 2。この発見は、その後の記憶障害の診断法やリハビリテーション戦略の開発に大きな影響を与え、例えば、宣言的記憶が重度に障害されている患者であっても、手続き記憶を活用した技能訓練や生活支援が可能であることなどを示唆する根拠となりました。
第3章:H.M.症例が脳科学に投じた光 – 記憶システムの解明
H.M.の症例研究は、脳と記憶の関係についての我々の理解を根底から変えました。彼が示した特異な記憶のパターンは、記憶システムの構造と機能に関する数多くの重要な発見へとつながりました。
記憶は独立した脳機能であることの発見:側頭葉内側部の決定的役割
H.M.の研究が始まる以前、記憶機能は知覚や知性といった他の高次の認知能力と分かちがたく結びついている、あるいは脳全体に広く分散していると考えられていました 2。しかし、H.M.は新しいことを全く覚えられないという重篤な記憶障害を抱えていたにもかかわらず、知能指数(IQ)は手術前と変わらず平均以上を維持し、言語能力や知覚能力も比較的保たれていました 1。
この驚くべき事実は、記憶という機能が、知性や知覚といった他の認知機能から分離可能な、脳内の独立したシステムによって担われていることを根本的に確立しました。そして、その記憶システムにおいて、特に側頭葉の内側部分(内側側頭葉)が決定的に重要な役割を果たしていることを明らかにしたのです 1。
海馬の重要性:新しい「宣言的記憶」の形成に不可欠
H.M.が受けた手術で最も大きく損傷したのは、側頭葉の内側深部にある海馬(hippocampus)とその周辺領域でした 1。彼が手術後に新しい事実や出来事に関する意識的な記憶、すなわち宣言的記憶(declarative memory)を形成する能力を完全に失ったことから、これらの脳部位、とりわけ海馬が、新しい長期記憶を符号化し、固定化するプロセスに不可欠であることが強く示唆されました 5。
ただし、注意すべき点として、H.M.の脳の損傷は海馬だけに限定されていたわけではなく、扁桃体(amygdala)や嗅内皮質(entorhinal cortex)、海馬傍回(parahippocampal gyrus)といった周辺の皮質領域にも広範囲に及んでいました 4。そのため、当初は海馬単独の機能を正確に特定することは困難でした。しかし、その後の動物を用いた研究や、海馬に限局した損傷を持つ他の患者症例(例えば、R.B.という患者の症例 4)の研究が進むにつれて、海馬自体の損傷だけでも記憶障害が起こりうること、そして、嗅内皮質や海馬傍回といった海馬周辺の皮質領域への損傷が加わると、記憶障害がより一層重篤になることが明らかにされてきました 4。H.M.の症例は海馬の重要性を最初に強く示唆しましたが、その後の精密な研究(動物モデル、他の患者症例、そしてH.M.自身の死後の脳の再調査を含む)によって、海馬だけでなく、海馬へ情報を中継する嗅内皮質や、海馬と密接に相互作用する他の内側側頭葉の構造とのネットワーク全体が、複雑な記憶形成プロセスに極めて重要であることが、より詳細に理解されるようになってきました。
宣言的記憶 vs. 非宣言的記憶:脳内の異なる記憶システム
前章で述べたように、H.M.は新しい出来事や事実(宣言的記憶)を全く記憶できませんでしたが、自転車の乗り方のような運動技能や特定の課題の遂行手順(手続き記憶、非宣言的記憶の一種)は学習し、保持することができました 4。
この「宣言できる記憶」と「行動で示される記憶」の明確な分離は、記憶が単一のシステムではなく、少なくとも二つの主要な記憶システムから構成されるという画期的な考え方を確立しました。一つは、事実や出来事に関する意識的な想起を伴う宣言的記憶システムで、これは内側側頭葉、特に海馬とその周辺構造に強く依存します。もう一つは、技能や習慣、条件付けなど、意識的な想起を必ずしも伴わない非宣言的記憶システムで、これには大脳基底核、小脳、新皮質などが関与すると考えられています 2。
この区別を理解しやすくするために、しばしば比喩が用いられます。宣言的記憶は「何を知っているか(knowing what)」、つまり知識や情報を言葉で説明できる記憶に例えられます。一方、手続き記憶は「どのようにやるか(knowing how)」、つまり特定のスキルを実行する方法に関する記憶に例えられます 20。H.M.の場合、「どのようにやるか」(例えば、鏡映描写課題の遂行方法)は学習できましたが、「何を学んだか」や「いつ、どこで学んだか」といった事柄は全く覚えられなかったのです。
記憶の固定(コンソリデーション):海馬から大脳皮質への情報移行プロセス
H.M.が手術前の古い記憶、特に遠隔記憶(何年も前に形成された記憶)を比較的よく保持していたのに対し、新しい記憶を全く固定できなかったという事実は、記憶の固定(memory consolidation)、特にシステムレベルでの固定(systems consolidation)と呼ばれるプロセスに関する重要な手がかりを提供しました 12。この理論によれば、海馬は新しく学習された情報を一時的に保持し、符号化する役割を担いますが、その情報は時間をかけて徐々に大脳皮質などのより永続的な貯蔵場所へと転送され、統合されていくと考えられています。
海馬は、学習時に同時に活動した大脳皮質の複数の領域間の結合を、睡眠中などに繰り返し再活性化させることで徐々に強化し、最終的には海馬の助けがなくても、大脳皮質のネットワーク内で記憶が安定して想起できるようになるとされています 14。H.M.の逆行性健忘に見られた時間的勾配、つまり手術に近い時期の記憶ほど失われやすかったという事実は、この記憶の固定プロセスが数年から数十年という非常に長い時間を要する可能性があることを示唆しています 1。
この複雑な記憶の固定プロセスを理解するために、いくつかの比喩が役立ちます。海馬は、図書館に入ってきた新しい本(新しい情報)を分類し、整理して、図書館の適切な書棚(大脳皮質)に配置する司書のような役割を果たすと考えることができます 24。あるいは、コンピューターの一時的な作業メモリ(RAM) 24 や、情報を一時的に書き留めておくホワイトボード 24 にも例えられます。そして、記憶の固定とは、これらの情報が整理され、より恒久的なファイルキャビネットやハードディスク(大脳皮質) 25 にしっかりと保存されるプロセスに似ていると言えるでしょう。
H.M.の症例は、[内側側頭葉の損傷] が [新しい宣言的記憶の形成不全] を引き起こす一方で、[短期記憶や手続き記憶は比較的保持される] という明確な因果関係を示しました。この事実は、記憶が脳の特定の構造と特定のプロセスに依存するという、現代神経科学における基本的な原則の確立に直接的につながりました。手術による物理的な脳部位の除去 1 と、その直後から観察された特異的な記憶パターンの変化 1 は、他の要因が介在しにくい、脳の構造と機能の間の直接的な関連性を示唆しています。特に、彼の知能や他の多くの認知機能が比較的保たれていたこと 1 は、この関連性の特異性を一層強めています。このような、いわば「純粋な」形で記憶障害が現れた症例は、脳機能の局在論を記憶という分野で強力に裏付けるものでした。そして、H.M.から得られた宣言的記憶と非宣言的記憶の分離、そして海馬を中心とする内側側頭葉の役割に関するこれらの基本的な知見は、アルツハイマー病(海馬が早期から障害される代表的な疾患)や、その他の様々な記憶障害を伴う疾患の病態を理解し、新たな治療法を開発していく上で、極めて重要な手がかりを提供し続けています 18。
以下の表は、H.M.症例研究において特に重要であった脳部位と、それらが記憶において果たすと考えられる機能、そしてH.M.の症例から得られた示唆をまとめたものです。
表2:H.M.症例研究に関わった主要な脳部位とその機能
脳部位 | H.M.における状態 (損傷/残存) | 推定される主な機能 (記憶関連) | H.M.症例からの示唆 |
海馬 (Hippocampus) | 大部分切除 (前部2/3 1, ただし後部一部残存 1) | 新しい宣言的記憶の形成・固定、空間記憶 | 記憶形成に不可欠、固定には長時間を要する |
嗅内皮質 (Entorhinal Cortex) | ほぼ完全切除 1 | 海馬への主要な情報入力路、記憶形成の初期段階 | 海馬が機能するために必須の入力経路であり、H.M.の重度健忘の鍵となった可能性が高い |
海馬傍回 (Parahippocampal Cortex) | 一部切除 1 | 文脈情報処理、シーンの認識、記憶形成 | 記憶障害の重篤度に関与し、海馬と協調して働く |
扁桃体 (Amygdala) | 大部分切除 4 | 情動(感情)の処理、情動記憶の形成と強化 | 情動記憶への影響が示唆される(ただしH.M.は感情表出自体は可能だった 10) |
大脳基底核 (Basal Ganglia) | 温存 8 | 手続き記憶の学習と実行、習慣形成 | H.M.において保持されていたスキル学習や習慣形成の神経基盤 |
小脳 (Cerebellum) | 温存 | 運動学習、タイミング調整、一部の手続き記憶 | H.M.において保持されていた運動技能の協調や学習に関与 |
大脳皮質 (Neocortex) | 温存 (ただし内側側頭葉との連絡は大きく変化) | 長期記憶の最終的な貯蔵場所、意味記憶、知覚情報処理、手続き記憶 | 記憶の永続的な貯蔵庫であり、海馬からの情報転送(固定)の受け皿となる |
この表は、H.M.の症例が特定の脳部位と特定の記憶機能との関連を明らかにしたことを示しています。海馬だけでなく、嗅内皮質や扁桃体といった周辺構造の役割と、それらがH.M.においてどの程度損傷し、あるいは残存していたかを明記することで、記憶システムが単一の脳部位によって担われているのではなく、複数の部位が複雑に連携するネットワークによって成り立っているという、より深い理解を促します。これは、本章の主要なテーマである「記憶システムの解明」を補強する上で不可欠な情報整理と言えるでしょう。
第4章:H.M.研究を推進した科学者たち
H.M.の症例が神経科学に与えた多大な影響の背後には、彼の状態を詳細に調査し、その意味を粘り強く探求した献身的な科学者たちの存在がありました。特に、ブレンダ・ミルナー博士とスーザン・コーキン博士の貢献は計り知れません。
ブレンダ・ミルナー博士:複数の記憶システムの存在を示唆した先駆的研究
ブレンダ・ミルナー博士(Dr. Brenda Milner)は、カナダのマギル大学モントリオール神経学研究所に所属する神経心理学者であり、H.M.の研究を最初期から手掛け、その後の記憶研究の方向性を決定づけた中心人物の一人です 11。彼女は1955年にH.M.と出会い、彼の特異な記憶障害に関する詳細な評価を開始しました 28。
1957年に、H.M.の手術を執刀したウィリアム・スコヴィル医師との共著で発表された論文「両側海馬病変後の近時記憶の喪失(Loss of recent memory after bilateral hippocampal lesions)」は、H.M.の症例を初めて学術界に詳細に報告し、内側側頭葉、特に海馬が近時記憶(新しい記憶)の形成に決定的に重要であることを世界に示した、歴史的な論文として知られています 4。
ミルナー博士の最も画期的かつ重要な貢献の一つは、前述した鏡映描写課題などを通じて、H.M.が新しい運動スキルを学習し、それを保持できることを発見したことです。この発見は、意識的に想起できる「宣言的記憶」とは別に、技能や習慣といった「手続き記憶」が存在し、これらが脳内で異なる神経システムによって支えられているという「複数の記憶システム」の概念を提唱する強力な根拠となりました 2。彼女の研究は、海馬の機能解明に留まらず、前頭葉の機能や、言語性記憶と非言語性記憶といった大脳半球の機能差に関する理解にも大きく貢献しました 27。
スーザン・コーキン博士:H.M.との数十年にわたる研究と神経画像研究への貢献
スーザン・コーキン博士(Dr. Suzanne Corkin)は、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)の神経科学者で、ミルナー博士の指導学生としてH.M.と出会いました 26。彼女は1962年から、H.M.が2008年に亡くなるまでの約46年間という長きにわたり、H.M.の研究を継続し、彼の記憶障害の全貌解明に尽力しました 18。
コーキン博士は、H.M.の記憶障害の範囲をさらに詳細に明らかにし、特に非宣言的記憶の様々な側面、例えば触覚を用いた迷路学習、運動スキルの長期保持、劣化した画像の認識能力などを詳細に検討しました。また、彼女の研究はパーキンソン病やアルツハイマー病といった神経変性疾患における記憶障害のメカニズム解明にも貢献しています 18。
コーキン博士の特筆すべき功績の一つは、MRI(磁気共鳴画像法)などの神経画像技術をH.M.の研究に早期から導入したことです。これにより、H.M.の脳の損傷範囲をより正確に特定し、残存している脳組織と観察される記憶機能との関連を詳細に検討することが可能になりました 13。その結果、例えば、H.M.の海馬の一部(特に後部)が手術後も残存していたことなどが明らかにされました 1。
彼女は、H.M.のプライバシーを尊重し、その匿名性を生涯守り続けました。H.M.の死後、彼の本名がヘンリー・モレイゾンであることが公表されました。コーキン博士は、その著書『Permanent Present Tense』(邦題:『永遠の現在 H.M.と呼ばれた記憶喪失患者の生涯』) 8 において、H.M.の数奇な人生と、彼から得られた科学的知見について、人間味あふれる筆致で詳述しています。
H.M.の研究は、一人の患者と、彼に寄り添い続けた少数の研究者たちとの間の、数十年にわたる深い信頼と協力関係の上に成り立っていました。H.M.自身も非常に協力的であり、研究者たちは彼の状態を詳細に、かつ長期的に観察し続けることができました 9。このような長期的かつ密接な関係性がなければ、彼の記憶機能に残された微妙な側面や、手続き記憶のような潜在的な学習能力を見出すことは極めて困難だったでしょう。これは、現代のビッグデータ解析や短期的な実験デザインだけでは得られない、個別症例研究ならではの深さと価値を示しています。科学的発見における長期的視点の重要性と、研究者と被験者との人間的なつながりが、いかに大きな成果を生み出しうるかを物語っています。
さらに、H.M.の研究に深く関わったブレンダ・ミルナー博士やスーザン・コーキン博士は、当時まだ男性中心であった神経科学の分野において、女性研究者が大きな貢献を果たす先駆的な役割も担いました 26。彼女たちの揺るぎない探究心と献身は、この分野の発展に多大な影響を与え、後進の多くの研究者たちに道を切り開いたと言えるでしょう。
第5章:H.M.の死後研究と明らかになった新事実
ヘンリー・モレイゾンは2008年12月2日に82歳で亡くなりました。しかし、彼の科学への貢献はそこで終わりませんでした。彼の脳は、その死後、本人の生前の意思と遺族の同意のもと、さらなる詳細な科学的研究のために保存されることになったのです。
脳の精密解析:H.M.の脳は2008年の死後、詳細な組織学的研究とデジタル化のために保存された。
H.M.の死後、彼の脳は直ちに凍結保存され、カリフォルニア大学サンディエゴ校のThe Brain Observatoryへと運ばれました。そこで、研究者たちは最新の技術を駆使して、脳を2401枚もの極めて薄い連続切片(各スライスの厚さは70マイクロメートル、つまり0.07ミリメートル)にスライスしました 1。これらの切片は一つ一つ染色され、高解像度でデジタル画像化されました。最終的に、これらの膨大な画像データをもとに、H.M.の脳の三次元デジタルアトラスが構築され、研究コミュニティに公開されたのです 1。これにより、生前のMRI検査では捉えきれなかった微細な構造や、病変の正確な範囲が、前例のない詳細さで明らかになりました。
予想外に残存していた海馬組織と嗅内皮質の広範な損傷。
この死後の詳細な脳解析から、いくつかの重要な新事実が判明しました。最も注目すべき発見の一つは、スコヴィル医師による当初の手術報告や、生前に行われたMRI画像から推定されていたよりも、海馬の後部(尾側部)がより広範囲に残存していたことです 1。海馬の前方部分は確かに広範に切除されていましたが、後方部分は比較的保たれていたのです。
一方で、海馬への主要な情報入力ゲートウェイとして機能する嗅内皮質(entorhinal cortex)は、ほぼ完全に破壊されていたことが確認されました 1。これは、海馬がたとえ一部残存していたとしても、そこに至る情報の流れが遮断されていた可能性を示唆します。
これらの発見がH.M.の症状理解に与える示唆。
これらの死後研究から得られた知見は、H.M.が示した複雑な記憶のパターンを理解する上で、新たな光を投げかけました。
まず、予想外に残存していた海馬組織は、H.M.が時折示した、限定的ながらも新しい情報を断片的に記憶する能力(例えば、手術後に有名になった人物の名前を認識したり、かつて住んでいた家の間取り図を驚くほど正確に描いたりしたこと 8)を説明する一助となるかもしれません 8。完全に記憶形成能力が失われていたわけではなく、ごくわずかながらも機能する海馬組織が、特定の条件下で限定的な学習を可能にしていた可能性が考えられます。
しかし、より重要なのは、嗅内皮質の広範な破壊が確認されたことです。嗅内皮質は、大脳皮質の様々な領域から集められた情報を処理し、海馬へと送り込む主要な中継点です。この部位がほぼ完全に破壊されていたということは、たとえ海馬の一部が物理的に残存していたとしても、新しい情報を効率的に海馬へ入力することが極めて困難であったことを意味します。この嗅内皮質の損傷が、H.M.の重篤な前向性健忘の主たる原因の一つであった可能性が強く示唆されています 6。
これらの発見は、記憶形成において、海馬単独の機能だけでなく、海馬と嗅内皮質を含む内側側頭葉全体のネットワークが協調して働くことの重要性を改めて強調するものです 6。海馬が記憶のオーケストラの指揮者のような役割を果たすとしても、楽器からの音(情報)が指揮者に届かなければ、美しい音楽(記憶)は生まれないのかもしれません。
H.M.の死後研究は、科学的理解というものが、常に更新され、より洗練されていくダイナミックなプロセスであることを明確に示しています。生前のMRI技術 7 によっても海馬の損傷は確認されていましたが、死後の詳細な組織学的解析とデジタル化 1 は、その損傷の正確な範囲と程度、特に嗅内皮質の状態について、より精密かつ決定的な情報を提供しました。これにより、H.M.の記憶障害の神経基盤に関する解釈は、単純な「海馬の損傷」から、「嗅内皮質の広範な破壊を伴う、内側側頭葉ネットワークの機能不全」へと、よりニュアンス豊かで複雑なものへと進化したのです。これは、科学的な結論というものが一度確立されたら不変なのではなく、新たな証拠や技術の登場によって常に再検証され、修正されていくべきものであることを示す好例と言えるでしょう。
さらに、H.M.の脳のデジタルアトラス 1 がインターネット上で公開されたことは、世界中の研究者がこの極めて貴重なデータにアクセスし、さらなる分析や研究を進めることを可能にしました。これは、科学的知見を共有し、集合的な努力によって理解を深めていこうとするオープンサイエンスの精神を体現するものであり、H.M.の貢献が彼の死後も継続していることを示しています。
第6章:H.M.症例研究における倫理的考察
H.M.の症例は、記憶と脳に関する我々の理解に計り知れない貢献をしましたが、同時に、特に認知機能に障害を持つ人々を対象とする研究の倫理的側面について、重要な問いを投げかけています。
記憶障害を持つ患者からのインフォームド・コンセントの問題点。
H.M.は、長年にわたる研究期間中、個々の実験や検査に参加する際には毎回、研究者から説明を受け、口頭で同意を与えていたとされています 30。しかし、彼の重篤な前向性健忘を考慮すると、その同意が真に「情報に基づいた」ものであったか(インフォームド・コンセントの要件を満たしていたか)については、深刻な倫理的議論が存在します。
彼が受けた説明の内容や、同意したという事実そのものを、数分後には忘れてしまっていた可能性が高いのです 17。このような状況で、彼が研究のリスクや利益、代替手段などを十分に理解し、自律的な意思決定を行う能力を持続的に保持できていたかは疑問視されています。彼自身が自分の置かれている状況や記憶障害の深刻さを完全に理解していなかった可能性も指摘されています 17。
研究への長期的な参加と患者の福祉。
H.M.は、1953年の手術後から2008年に亡くなるまでの55年間、100人以上の研究者による数多くの研究に参加しました 2。研究者たちは、彼のプライバシーを保護するために仮名(H.M.)を使用し、彼に対して敬意を持って接していたとされています 17。しかし、彼の生活が長期間にわたり研究環境に大きく依存していたという側面も否定できません 17。
一部の研究手法、例えば、正答を記憶させるために軽微な電気ショックを用いた実験 17 などについては、その倫理的正当性が問われることもあります。H.M.は電気ショックに対する耐性が高かったとされていますが、彼が自身の状況を理解できないまま、実質的に同意を拒否できない立場で実験に参加させられていたのではないかという懸念です。
また、H.M.の研究を長年主導したスーザン・コーキン博士に対しては、彼女が研究情報を独占しようとした、あるいはH.M.の近親者からの同意取得プロセスに問題があったのではないかといった批判も、彼の死後に一部から提起されました 26。ただし、これらの批判的意見の中には、研究者間の個人的な対立関係に起因する可能性を指摘する声もあります 26。
H.M.の症例研究が開始された1950年代の医学研究における倫理基準は、現代のそれとは大きく異なっていた可能性があります。彼のインフォームド・コンセントに関する問題 17 は、記憶障害やその他の認知機能障害を持つ人々が、どのようにして研究参加に関する自律的な意思決定を行うことができるのか、代理同意の適切なあり方は何か、そして長期間にわたる研究参加が被験者の福祉にどのような影響を与えうるのか、といった今日においても重要な問題を提起しています。これらの問題意識は、その後の研究倫理審査委員会(IRB)の役割強化や、より厳格で包括的なインフォームド・コンセント手続きの確立、脆弱な立場にある被験者の権利保護を重視する研究倫理指針の発展へと繋がる、大きな流れの一部を形成したと考えられます。
H.M.の症例は、科学的進歩の追求と、個人の権利および尊厳の保護という、しばしば緊張関係に置かれる二つの普遍的な価値を、どのように調和させていくべきかという根本的な問いを私たちに投げかけています。H.M.が科学にもたらした多大な貢献は疑いようのない事実ですが、その過程における倫理的な側面を継続的に検証し、そこから教訓を学び取ることは、将来の科学研究がより倫理的かつ人間中心的なものとなるために不可欠な努力と言えるでしょう。
第7章:H.M.が私たちに遺したもの – 記憶研究への不滅の貢献
ヘンリー・モレイゾンの人生は、彼自身にとっては「永遠の現在」の連続でしたが、彼が科学と人類に残した遺産は、時間的制約を超えて永続するものです。彼の症例は、記憶研究の歴史において一つの転換点となり、その影響は現代の神経科学の隅々にまで及んでいます。
現代の記憶研究、認知神経科学、さらには関連疾患の治療法開発への多大な影響。
H.M.に関する研究は、脳内で記憶がどのように組織され、機能しているかについての基本的な原則を確立し、その後の数十年にわたる膨大な量の実験的研究を刺激し、方向づけました 2。彼から得られた知見、すなわち、記憶には複数の異なるシステム(宣言的記憶と非宣言的記憶など)が存在すること、短期記憶と長期記憶が区別されること、内側側頭葉、特に海馬と嗅内皮質が新しい宣言的記憶の形成に不可欠であること、そして記憶は時間をかけて固定化(コンソリデーション)されることなどは、現代の記憶理論の根幹を成す重要な柱となっています 3。
これらの基礎的な知識は、単に学術的な興味を満たすだけでなく、アルツハイマー病(海馬が早期から重度に侵される疾患)、てんかん、外傷性脳損傷、その他の様々な記憶障害を伴う神経疾患や精神疾患の病態生理を理解し、より効果的な診断法や治療法、リハビリテーション戦略を開発していく上で、不可欠な基盤を提供しています 18。H.M.がいなければ、これらの分野における我々の理解は、現在よりもずっと遅れていたかもしれません。
H.M.自身の言葉:「ぼくは生きている、そして、あなたたちは学んでいる (“I’m living, and you’re learning.” 10)。」
この言葉は、H.M.が長年にわたる検査や実験の最中に、研究者の一人であるスーザン・コーキン博士に語ったとされるものです。この短いフレーズは、彼が自身の特異な状況をある程度認識し、自らが研究に協力することが他者のため、そして科学の進歩のために役立っているという意識を、たとえ断片的であったとしても持っていた可能性を示唆しています。それは、彼の人間性と、彼が耐え忍んだ困難の中から生まれた科学への貢献の重みを象徴する、非常に示唆に富んだ言葉です 8。彼は、新しいことを覚えていられないにもかかわらず、研究者たちに飽きることなく、辛抱強く協力し続けました。彼の存在そのものが、記憶という深遠な謎を解き明かすための、生きた学びの源泉となったのです 10。
H.M.の症例は、たった一人の患者に関する詳細な研究が、科学の一分野全体を根本から変革しうる力を秘めていることを示す、歴史上でも極めて顕著な例です。彼の記憶障害の特異性と、他の認知機能が比較的保たれていたという「純粋さ」 13 は、脳と記憶の関係を調べる上で、他に類を見ない理想的な「自然実験」の機会を提供しました。これにより、それまで哲学的、あるいは心理学的なレベルで抽象的に議論されることの多かった記憶の概念が、具体的な脳の構造や生理学的プロセスと明確に結びつけられるようになったのです 3。このような単一症例研究が持つ力は、現代のビッグデータ解析や大規模コホート研究とは異なる種類の、深く、かつ本質的な洞察をもたらす可能性を秘めています。
H.M.から得られた知見の遺産は、専門的な科学論文や教科書のページの中に留まるものではありません。彼の物語は、一般の人々が脳の不思議や記憶の重要性について関心を持ち、科学リテラシーを高めるきっかけともなっています。彼の人生は、科学の進歩というものが、しばしば個人の経験や、時には悲劇と深く結びついていることを伝え、次世代の研究者や科学コミュニケーターたちに、探求心と倫理観の両方を持って研究に取り組むことの重要性を教え、鼓舞し続けているのです 34。
おわりに
ヘンリー・モレイゾン、H.M.の症例は、20世紀後半から21世紀初頭にかけての記憶研究において、最も影響力のあるものでした。彼が私たちに遺してくれた知見は、人間の脳と記憶の理解を飛躍的に深め、神経科学の新たな地平を切り開きました。
H.M.の研究から得られた主要な知見を要約すると、以下の点が挙げられます。第一に、記憶は単一の機能ではなく、宣言的記憶(事実や出来事の記憶)と非宣言的記憶(技能や習慣の記憶)など、複数の異なるシステムから構成されていること。第二に、側頭葉の内側部、特に海馬とその周辺の嗅内皮質などが、新しい宣言的記憶を符号化し、長期記憶として固定化する上で不可欠な役割を担っていること。第三に、記憶は形成された直後に完成するのではなく、時間をかけて徐々に脳内で再編・強化され、より永続的なものへと変化していく(システムコンソリデーション)こと。これらの発見は、H.M.という一人の人間の協力なくしては、これほど明確な形で明らかにされることはなかったでしょう。
H.M.の存在は、文字通り神経科学の教科書を書き換えました。彼の症例は、脳の特定の部位が損傷すると、どのような認知機能が選択的に障害され、またどのような機能が保たれるのかを詳細に調べることで、脳機能の局在という基本的な問いに答えるための強力な証拠を提供しました。
H.M.のような稀有な症例研究の重要性は、現代においても変わりません。最新の脳画像技術や遺伝子解析技術が目覚ましい進歩を遂げている一方で、一人の患者を長期間にわたって詳細に観察し、その行動や認知の変化を丹念に記録することから得られる深い洞察は、脳という複雑なシステムの謎を解き明かす上で、依然としてかけがえのない手がかりを提供してくれます。もちろん、そのような研究を進めるにあたっては、被験者の権利と福祉を最大限に尊重し、厳格な倫理的配慮のもとで行われるべきであることは言うまでもありません。
ヘンリー・モレイゾンの物語は、科学的探求の最も人間的な側面を浮き彫りにします。それは、一人の人間の悲劇的な運命が、図らずも全人類の知識の進歩に大きく寄与するという、深遠なパラドックスを内包しています。彼自身の新しい記憶は手術と共に失われ続けましたが、彼に関する記憶、そして彼から学んだ記憶に関する知識は、科学の歴史に、そして私たちの集合的な理解の中に、永遠に刻まれ続けるでしょう。
主要参考文献
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