はじめに
質量分析(Mass Spectrometry, MS)とは、物質をイオン化してその質量電荷比(m/z)を精密に測定する分析手法です (質量分析法 | JAIMA 一般社団法人 日本分析機器工業会)。試料中の分子を原子・分子レベルでイオンに変換し、その質量数や存在量を調べることで物質の同定(何の物質か)や定量(どれくらいあるか)を行います (質量分析法 | JAIMA 一般社団法人 日本分析機器工業会)。極微量の分子まで検出可能な超高感度・高特異性の分析法であり、ゲノムやタンパク質、代謝物といった生命科学の分野で不可欠な技術となっています。例えば、新生児マススクリーニングではタンデム質量分析計で代謝異常症を診断し、病院の微生物検査ではMALDI-TOF質量分析計で病原菌を迅速同定するなど、医療や生命科学研究の幅広い現場で活躍しています。また、近年はプロテオミクス(網羅的タンパク質解析)やメタボロミクス(網羅的代謝物解析)といった「オミクス」研究の発展により、質量分析は生命現象の解明に欠かせない基盤技術となりました。
このように質量分析は原理上、分子の構造断片情報や分子量を精密に得られるため、未知物質の構造決定から生体内分子の網羅解析まで幅広い応用があります。本記事では、質量分析の生命科学における応用範囲を概観し、とくにプロテオミクスとメタボロミクスの手法の違いを解説します。その上で、最新の研究動向や市場・産業の視点についても紹介し、質量分析技術がもたらす生命科学の現在地と今後の展望をわかりやすく解説します。


質量分析の応用範囲
質量分析計は、生命科学の様々な分野で活用されています。代表的な応用として、プロテオミクス(タンパク質網羅解析)、メタボロミクス(代謝物網羅解析)、創薬における薬物動態解析(薬剤の吸収・分布・代謝・排泄の解析)、医療の病理診断、そして公衆衛生や生態系研究における環境科学などが挙げられます。それぞれどのように質量分析が使われているのか、概要を見てみましょう。
プロテオミクス
プロテオミクスは、生物が持つ全タンパク質(プロテオーム)を網羅的に解析する研究分野です (オミクス解析の基礎: ゲノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクスの違いと用途 | 株式会社Rhelixa(レリクサ))。質量分析計はプロテオーム解析の主要な技術基盤であり、試料中のタンパク質を網羅的に同定・定量する「ショットガンプロテオミクス」手法が確立されています。具体的には、抽出したタンパク質群を消化酵素(トリプシンなど)でペプチド断片に分解し、液体クロマトグラフィーとタンデム質量分析(LC-MS/MS)で多数のペプチドを分析します。得られたMS/MSスペクトルをタンパク質データベースと照合することで、試料中に存在するタンパク質を同定できます。この手法により、一度の実験で数千種類以上のタンパク質を同時に解析することが可能となり、細胞や組織でどのタンパク質がどれだけ発現しているか、翻訳後修飾はどうか、といった網羅的なプロファイルが得られます (オミクス解析の基礎: ゲノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクスの違いと用途 | 株式会社Rhelixa(レリクサ))。プロテオミクスは疾患のバイオマーカー発見や創薬標的探索、タンパク質間相互作用ネットワークの解明などに応用され、ゲノムやトランスクリプトーム(転写産物)解析と合わせて生命現象を多層的に理解するための強力なアプローチです (オミクス解析の基礎: ゲノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクスの違いと用途 | 株式会社Rhelixa(レリクサ))。
メタボロミクス
メタボロミクスは、生物内の全代謝物(メタボローム)を網羅的に解析する研究分野です (オミクス解析の基礎: ゲノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクスの違いと用途 | 株式会社Rhelixa(レリクサ))。代謝物質はアミノ酸、糖、脂質、核酸中間体など多種多様で、細胞の状態や環境応答を反映する「表現型」に近い情報を持ちます (オミクス解析の基礎: ゲノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクスの違いと用途 | 株式会社Rhelixa(レリクサ)) (メタボローム解析で何がわかるの?何をするの?基礎から徹底解説)。質量分析計はメタボロミクスの中心技術であり、一般に**ガスクロマトグラフ質量分析(GC-MS)や液体クロマトグラフ質量分析(LC-MS)**が用いられます (GC-MS/MS、LC-MS/MSによる代謝物の網羅的分析 : 分析計測機器(分析装置) 島津製作所)。揮発性・熱安定な代謝物はGC-MSで、高分子量や極性のある代謝物はLC-MSで分析するなど、分析対象に応じて使い分けます (GC-MS/MS、LC-MS/MSによる代謝物の網羅的分析 : 分析計測機器(分析装置) 島津製作所)。例えば、腸内細菌が産生する多数の代謝物をメタボローム解析する際、一度の分析で数百種類の化合物を検出でき、その中から生体に影響を及ぼす物質を同定します (GC-MS/MS、LC-MS/MSによる代謝物の網羅的分析 : 分析計測機器(分析装置) 島津製作所)。メタボロミクスでは未知化合物も多く含まれるため、既知代謝物のライブラリや高分解能MSによる分子式推定を駆使して同定を行います。得られた代謝プロファイルから、生体内の代謝経路の変動や病態、生理的応答のメカニズム解明につなげます。メタボロミクスは表現型に直結した情報が得られる利点があり (メタボローム解析で何がわかるの?何をするの?基礎から徹底解説)、医薬・栄養・環境分野でバイオマーカー探索や機能解析に広く用いられています。
薬物動態解析
創薬や薬理研究において、質量分析は薬物動態(ADME)の解析に不可欠です。新薬候補化合物を投与した際、血中や臓器中で薬物がどのように吸収され、どの代謝物に変換され、どのくらいの速さで排泄されるかを定量的に追跡する必要があります。高速液体クロマトグラフィー-タンデム質量分析計(LC-MS/MS)は、生体試料中の微量な薬物や代謝物を高感度に検出できるため、臨床前試験から臨床試験まで薬物濃度推移をモニターする「ゴールドスタンダード」となっています。例えば、抗がん剤の血中濃度を経時測定して薬効と副作用のバランスを評価したり、体内で生成する活性代謝物の構造をMS/MSスペクトルから推定したりといった応用があります。質量分析による薬物動態解析により、適切な投与量や投与間隔の設定、薬物相互作用の評価など、安全で有効な薬物治療の設計が可能になります。
病理診断
質量分析技術は医療の現場にも応用されつつあります。例えば、MALDI-TOF MS(マトリックス支援レーザー脱離イオン化飛行時間質量分析計)は、培養した細菌コロニーからタンパク質スペクトルを測定し、その“指紋”をデータベースと照合することで細菌種を迅速に同定する手法として臨床検査で広く普及しています (MALDI-TOF MS微生物同定用ライブラリー(指紋判定法)の提供)。従来数日を要した細菌同定が数分で完了するため、感染症診断のスピード向上に貢献しています。また、病理組織における**質量分析イメージング(MSI)**も注目されています。MALDIを用いて組織切片上の分子を位置情報付きでイオン化し、各画素ごとにMSスペクトルを取得することで、薬剤や脂質、ペプチドなどの分布マップを作成できます。これにより、腫瘍組織中の薬剤濃度分布や疾患マーカーの空間的偏りを「見える化」し、病理診断や創薬に役立てる研究が進んでいます (質量分析イメージング法を用いた肝臓の空間マルチオミクス解析 …)。さらに、質量分析を用いた血中バイオマーカー検査(例えば特定のタンパク質や代謝物の高感度検出)も実用化が進み、従来の免疫測定法では難しいマルチマーカー同時測定や高精度な定量が可能となっています。
環境科学
環境中の微量化学物質の検出・モニタリングにも質量分析が活躍しています。水道水や食品中の残留農薬、大気中の汚染物質、さらには生態系内の代謝物や二次代謝産物まで、質量分析計によって網羅的にスクリーニングできます。特に近年はノンターゲット分析と呼ばれる、事前に狙った物質だけでなく未知の汚染物質も含め包括的に検出するアプローチが注目されています。高分解能の質量分析計でサンプル中のあらゆるピークを測定し、化合物ライブラリやMS/MSデータベース照合によって未知の汚染物質を同定する試みです。例えば河川水を分析して未知の環境汚染物質を発見したり、野生生物の体内に蓄積する化学物質を網羅分析して環境リスク評価に役立てたりといった研究が行われています。環境科学では、質量分析計の高感度・網羅性を活かし、人間活動がもたらす環境中の微量化学物質を「見える化」することで、公衆衛生の維持や生態系保全につなげています。
以上のように、質量分析は生命科学から環境まで非常に広範な応用範囲を持ちます。中でもプロテオミクスとメタボロミクスは現在特に活発な分野であり、質量分析技術によって可能になった代表的なオミクス研究です。次に、このプロテオミクスとメタボロミクスの手法の違いについて詳しく解説します。
プロテオミクス vs. メタボロミクス:手法の違い
同じ質量分析を用いるプロテオミクスとメタボロミクスですが、対象とする分子の性質が全く異なるため、分析手法にもいくつかの相違点があります。その主な違いを以下の表にまとめます。
上記のように、プロテオミクスとメタボロミクスはいずれも質量分析を駆使して網羅的解析を行いますが、対象分子の違いから手法面で独自の発展を遂げています。プロテオミクスではゲノム情報との連携によるペプチド配列同定が鍵となり、メタボロミクスでは網羅検出した未知ピークの同定という課題に取り組む必要があります。双方のデータを統合することで、生体内のタンパク質と代謝物のネットワークを包括的に理解する「マルチオミクス解析」も推進されています。実際、疾患研究ではプロテオームとメタボロームを統合解析して新たな診断マーカー候補を発見したり (日本人集団の血漿のメタボローム&プロテオーム解析が完了 – AMED)、栄養科学では遺伝子多型と代謝プロファイルの関連から個別化医療に応用したりといった例が増えています。質量分析技術の進歩は、こうしたマルチオミクスの融合によって生命科学研究をさらに加速しています。
最新の研究動向:技術革新の最前線
質量分析の世界では、近年も目覚ましい技術革新が続いています。ここでは高分解能質量分析(HRMS)、トラップ型M、単一細胞プロテオミクス、時空間オミクス解析、そしてAIによるスペクトル解析という注目トピックについて、最新動向を紹介します。
高分解能質量分析(HRMS)の進展
質量分析計の分解能と質量精度が飛躍的に向上しています。Orbitrap型や飛行時間型(TOF)の高分解能質量分析計では、m/zの小数点以下4桁以上の精度で測定可能となり、分子式の推定や異性体の識別が格段に容易になりました。例えばThermo Fisher社のOrbitrapシリーズや、SCIEX社の新世代装置ZenoTOF 7600は、これまで検出・定量が難しかった分子種の同定を可能にし、前例のないレベルで分子の特性解析や定量分析を実現すると報じられています (SCIEX 新しい高分解能質量分析装置 ZenoTOF 7600システムを発表)。HRMSにより、「ある試料中で観測されたm/z 300.1234のピークは分子式C_14H_19O_7に一致する」といった精密な情報から未知化合物の推定につなげられます。また、質量精度の向上はプロテオミクスのペプチド同定率向上や、メタボロミクスにおける未知ピークの候補構造提案にも大きく貢献しています。さらに近年は分解能10万を超える超高分解能MSを搭載しつつスループットも高めた装置が開発されており、プロテオーム解析では1回の実験で1万種近いタンパク質同定も現実味を帯びてきました。高分解能MS技術の発展は、質量分析が扱える情報量と精度を飛躍的に向上させ、生命科学のデータを一層リッチにしています。
トラップ型MSの革新
イオントラップ型の質量分析計も新たな展開を見せています。イオントラップは電場にイオンを閉じ込めて蓄積し、多段階のMS/MS(例えばMS^n)解析を1台で連続的に行える点が特徴です。従来、大型装置が主だったイオントラップですが、島津製作所が開発した「MALDImini-1」はA3サイズの卓上型という極めて小型ながら、イオントラップによる詳細な構造解析に対応するデジタルイオントラップ型質量分析計です (詳細な構造解析に対応する、MALDIデジタルイオントラップ型質量 …)。この装置は質量分析計の劇的な小型化により、これまでMSを設置できなかった手狭なラボや臨床現場にも持ち込めることを狙った革新的製品です。小型化と高性能化の両立は今後の質量分析の重要な潮流であり、現場で即時に分析を行うポータブルMSや、リアルタイムで高速なMS/MS解析を行うトラップ装置の開発が活発化しています。また、イオントラップ技術自体も進化しており、線形イオントラップとOrbitrapを組み合わせたハイブリッド装置や、トラップ内で電子衝撃を与えて選択的にフラグメント生成する手法(EAD法)など、新しい分析モードが登場しています。これらは複雑な分子の構造解析や、同位体を含む高精度定量に威力を発揮し、創薬化学や材料科学でも注目されています。
単一細胞プロテオミクス
これまで数万~数百万の細胞をまとめて解析していたプロテオミクスが、1個の細胞を対象にできる時代になりつつあります。DNAやRNAのシングルセル解析(単一細胞ゲノム・トランスクリプトーム解析)は増幅技術の確立で先行していましたが ()、タンパク質は増幅できないため極微量検出が課題でした ()。しかし近年、質量分析計の感度向上と微量試料ハンドリング技術の進歩により、単一細胞中のプロテオームを解析する「シングルセルプロテオミクス」が現実のものとなってきました ()。たとえばBruker社のtimsTOF SCP(Single Cell Proteomics)やThermo社の超高感度LC-MSプラットフォームは、1細胞当たり数百~数千種のタンパク質を同定できる性能を謳っています。シングルセルプロテオミクスでは、ナノリッター容量の超微量サンプル調製、極低流量(ナノフロー)LCによるピーク拡散の抑制、そして高感度MSによる検出が鍵となります ()。また、複数の細胞サンプルを等量混合して相対定量するTMTイソバリックラベル手法を応用し、「多数の細胞 + シングルセル」という混合試料を測定してシングルセルの信号をブーストする工夫も登場しました。単一細胞レベルでのタンパク質定量は、細胞間の多様性(ヘテロジェナイティ)や希少細胞集団の特性を明らかにし (1細胞プロテオミクス技術開発の動向 – J-Stage)、がん組織中のわずかな悪性細胞の挙動解析などに新たな知見をもたらしています。実際、「細胞1個のプロテオームは核酸情報よりも直接細胞機能を反映する指標であり、深い洞察が得られる」と期待されており (シングルセルオミクスの基本を理解する | Cytiva)、今後シングルセルプロテオミクスは細胞生物学や医療分野で飛躍的に重要性を増すと考えられます。
時空間オミクス解析
近年、「いつ・どこで」分子変化が起きるかを捉える時空間オミクスが台頭しています。質量分析はその高感度・マルチ解析能力から、時空間分析への応用でも重要な役割を果たしています。一例として、質量分析イメージングとタイムコース解析の融合が挙げられます。前述のMALDIイメージングによって組織内の分子分布を可視化しつつ、異なる時間点での測定を繰り返すことで、時間経過に伴う分子動態を追跡できます。これにより、創傷治癒の過程での代謝物の変化や、薬剤投与後の脳内薬物濃度の時間推移など、「時空間マップ」を描くことができます。また、リアルタイム質量分析も進展しています。プローブ電気スプレーイオン化(PESI)など侵襲性の低い直截イオン化手法を用い、生きた動物の臓器からリアルタイムにサンプリング&イオン化を行い、質量分析でその場解析する試みです (KAKEN — 研究課題をさがす | リアルタイム質量分析による生体マウス脳の時空間メタボローム解析法の開発と実証評価 (KAKENHI-PROJECT-21H03793))。実際に、生体マウスの脳にマイクロプローブを刺入して代謝物を連続計測し、脳内で時間・空間的にどう代謝物が変動するかを解析する研究も行われています (KAKEN — 研究課題をさがす | リアルタイム質量分析による生体マウス脳の時空間メタボローム解析法の開発と実証評価 (KAKENHI-PROJECT-21H03793))。このような時空間オミクス解析により、例えば「胎児マウス脳のある領域がストレスに弱い理由」や「脳腫瘍が周囲正常組織に与える代謝影響」を明らかにすることが目指されています (KAKEN — 研究課題をさがす | リアルタイム質量分析による生体マウス脳の時空間メタボローム解析法の開発と実証評価 (KAKENHI-PROJECT-21H03793))。時空間解析はまだ新しい分野ですが、質量分析のさらなる高感度化と自動計測技術の発展によって、将来的には生体内プロセスをリアルタイムかつ全体像で“見守る”ことも可能になるでしょう。
AIによるスペクトル解析
質量分析では1回の測定で膨大なスペクトルデータが得られるため、そのデータ解析へのAI(人工知能)技術の導入も注目されています。典型的なLC-MS分析では、数百の時間ポイントに対して数千のMSスペクトルが生成され、扱うデータ量は非常に大きくなります (GC-MSおよびLC-MSデータ処理における機械学習の応用 | miLab – MI-6)。従来は熟練した研究者が手動やルールベースでピーク検出・同定を行ってきましたが、機械学習やディープラーニングを活用することで解析の自動化・高精度化が進んでいます。例えば、日本電子(JEOL)社のmsFineAnalysisソフトウェアは、ハードイオン化(EI)とソフトイオン化で得た2種類の質量スペクトル情報をAIで統合解析し、未知化合物の構造推定を高度化しています (未知物質構造解析ソフトウェア msFineAnalysis AIにおけるAI構造 …)。また、島津製作所はピーク検出用のAIアルゴリズム「Peak Intelligence」を開発し、クロマトグラム中の微弱なピークも自動で正確に検出できるようにしました (有識者に聞く! AI技術を用いたMSデータ解析の効率 … – 分析計測機器)。プロテオミクスの分野でも、ディープラーニングを用いてペプチドのMS/MSスペクトルからアミノ酸配列をデノボ解析する技術や、観測スペクトルを予測スペクトルと比較して高精度にペプチド同定する手法が登場しています。AIは複雑なスペクトルパターンの中から人間には見つけにくい特徴を学習し、未知化合物の構造分類や網羅データからの有意パターン発見にも応用されています。例えば数千の代謝プロファイルから疾患関連クラスターを教師なし学習で抽出したり、大規模プロテオームデータから疾患予後を予測するバイオマーカー組み合わせを見出す試みも進んでいます。今後、AIと質量分析の融合はデータ解析の効率と深度を飛躍的に高め、質量分析が明らかにする生命科学上の知見をさらに豊かなものにするでしょう。
市場・産業視点:質量分析器産業の現状
質量分析計は研究用装置の中でも大きな市場を形成しており、世界中で複数の主要メーカーが競い合っています。世界の質量分析計市場規模は2018年に約55億ドルと推定され、年平均7~8%程度の成長率で拡大し、2026年には100億ドルを超える規模に達すると予測されています (質量分析計市場規模、シェア、動向、成長レポート2030)。この成長の背景には、ライフサイエンス研究の発展や医療・環境分野での分析需要増加、高分解能MSの新製品投入などが挙げられます。市場をリードする主要メーカーとしては、米国のThermo Fisher Scientific(サーモフィッシャーサイエンティフィック)、Danaher Corporation傘下のSCIEX(エスアイエックス)、Agilent Technologies(アジレント)、Waters Corporation(ウォーターズ)、Bruker Corporation(ブルカー)、日本の島津製作所や日本電子(JEOL)、米PerkinElmerなどが知られます (質量分析市場| 業界シェア 市場規模 成長性 2024 – 2029年)。多くは欧米の大手分析機器メーカーで、それぞれ独自の強みを持つ製品ラインを展開しています。例えばThermo Fisher社は高分解能Orbitrap質量分析計シリーズで知られ、市場全体でも最大手であります(同社はNY証券取引所に上場しており、2022年の全社売上は約449億ドルにも及びます (サーモフィッシャーサイエンティフィック – Wikipedia))。AgilentやWatersも分析機器大手として質量分析計事業を持ち(Agilentの2024年通年売上は約65億ドル (会社情報: アジレントについて – Agilent)、Watersは約29.6億ドル (日本ウォーターズ株式会社 会社概要 – Waters Corporation))、BrukerはユニークなNMR・質量分析技術で存在感を示す中堅企業(2023年の売上約29.6億ドル (日本ウォーターズ株式会社 会社概要 – Waters Corporation))、SCIEXは四重極・TOF型MSのパイオニアでタンデム四重極やQ-TOFの高性能機で知られます(SCIEX自体は非上場ですが親会社DanaherはNYSE上場企業)。島津製作所は古くから質量分析の国産開発を牽引し、2002年には田中耕一氏がMALDI法の発明でノーベル化学賞を受賞したことでも有名です。島津も東証プライム上場企業で、2024年3月期の連結売上は約5,119億円(約35~40億ドル規模)に達しています (連結業績ハイライト – 島津製作所)。日本電子も磁場型MSやMALDIの独自技術を持つメーカーです。
主要メーカーの多くは上場企業であり、研究用途のみならず臨床検査や食品検査、環境モニタリングといった産業用途への展開にも力を入れています。特に近年は医療分野での質量分析装置の需要増が期待されており、臨床診断用のMALDI-TOFやLC-MS装置を手掛ける企業も増えています。市場シェアは装置タイプごとに異なりますが、Thermo Fisher、SCIEX(Danaher)、Agilent、Waters、Bruker、島津あたりが世界市場のトップグループを占めており (質量分析装置―グローバル市場シェアとランキング、全体の売上と …)、高いブランド力とグローバルな販売・サポート網を武器にしています (質量分析計市場規模、シェア、動向、成長レポート2030)。一方で、新興メーカーやスタートアップもユニークな技術で参入しており、小型携帯型MSや安価なベンchtop MSでニッチ市場を拓こうとする動きもあります。
質量分析業界はまた、装置そのものだけでなく、消耗品(カラムや試薬)、ソフトウェア、受託解析サービスなど周辺ビジネスも含め巨大なエコシステムを形成しています。たとえば製薬企業向けには、メーカーが分析受託サービスを提供したり、クラウド上で質量分析データを管理・解析するプラットフォーム(SCIEXのOneOmicsなど)を展開する例もあります。主要メーカー間では装置性能の競争に加え、こうしたソリューション提案型ビジネスの競争も激化しています。
おわりに
質量分析計は、その登場以来つねに分析科学の最前線で技術革新を続け、生命科学に新たな視点を提供してきました。ゲノム・プロテオーム・メタボロームといった複雑系の網羅解析を可能にし、医療や環境の課題解決にも寄与するその姿は、「現代の魔法の箱」と言えるかもしれません。今後も更なる高感度化・高速化・小型化が進み、従来は測れなかった場で、見えなかったものが見えるようになるでしょう。例えば手のひらサイズの質量分析計がベッドサイドで患者の血中薬物をリアルタイム測定したり、ドローン搭載MSが大気中のウイルスや汚染物質をその場検知したり、といった未来も描かれています。また、AIとの融合により複雑データから新発見が次々ともたらされ、質量分析はスマートしていくでしょう。質量分析器が解き明かす生命科学はますます広がりと深みを増し、私たちの健康と暮らしに大きなインパクトを与え続けるはずです。その動向から今後も目が離せません。
参考文献(出典)
- 【61】 JAIMA 日本分析機器工業会, 「質量分析法」解説, 質量分析とは物質をイオン化しその質量数と数を測定することで同定・定量を行う方法であり超高感度な分析手法 (質量分析法 | JAIMA 一般社団法人 日本分析機器工業会).
- 【3】 株式会社レリクサ, 「プロテオミクス/メタボロミクスの定義」, プロテオミクスは全タンパク質情報の網羅解析、メタボロミクスは全代謝物の網羅解析を行う分野 (オミクス解析の基礎: ゲノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクスの違いと用途 | 株式会社Rhelixa(レリクサ)) (オミクス解析の基礎: ゲノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクスの違いと用途 | 株式会社Rhelixa(レリクサ)).
- 【18】 島津テクノリサーチ, 「ショットガンプロテオミクスの原理」, タンパク質を酵素消化しLC-MS/MSで網羅同定、質量分析で得たスペクトルからデータベース検索でタンパク質同定を行う.
- 【16】 島津製作所, 「メタボローム解析で使用されるMS」, メタボローム解析では一般にGC-MSやLC-MSを用いてサンプル中の代謝物を網羅的に分析 (GC-MS/MS、LC-MS/MSによる代謝物の網羅的分析 : 分析計測機器(分析装置) 島津製作所).
- 【21】 津川裕司ほか, 「メタボロミクスにおける化合物同定」日本質量分析学会誌, LC-MSでは1000を超える代謝物ピークが検出されるが同定できるのは200前後と少なく、マススペクトルライブラリー不足が課題.
- 【63】 Sigma-Aldrich (メタボロミクス解説), トランスクリプトミクスやプロテオミクスでは生物種ごとにライブラリーを使い分ける必要があるのに対し、メタボロミクスは非モデル生物でも容易に応用できる (メタボロミクスの重要性とその活用 – Sigma-Aldrich)。またメタボロミクスは生命現象を調べる表現型に近い情報が得られる利点がある (メタボローム解析で何がわかるの?何をするの?基礎から徹底解説).
- 【65】 SCIEX 日本, プレスリリース「ZenoTOF 7600システム発表」, “これまでは生成できなかったデータの取得を可能にし、かつてないレベルで分子の同定・特性解析・定量分析を実現” と高分解能MSの性能を紹介 (SCIEX 新しい高分解能質量分析装置 ZenoTOF 7600システムを発表).
- 【66】 MONOist, 「MALDImini-1発売記事」, 島津製作所がA3サイズの小型ながら詳細な構造解析に対応するMALDIデジタルイオントラップ型質量分析計「MALDImini-1」を発売 (詳細な構造解析に対応する、MALDIデジタルイオントラップ型質量 …).
- 【26】 日本分析化学会「ぶんせき」(2022), 「1細胞質量分析の現状と展望」, 単一細胞オミクスでは核酸は増幅可能だがタンパク質や代謝物は増幅できないため微量検出が課題で、高感度分析法の開発が重要 () ().
- 【25】 ライフサイエンスデータベース, 「単一細胞プロテオーム解析」, 1細胞レベルのプロテオミクス分析は、がん細胞の多様性や組織発生などに新たな知見をもたらしている (1細胞プロテオミクス技術開発の動向 – J-Stage).
- 【68】 Cytiva (2022), 「シングルセルオミクスの基本」, “シングルセルプロテオミクスでは細胞のタンパク質含有量を評価…DNAやRNAのオミクスと比較してまだ初期段階だが期待は高まっている。細胞のプロテオームは核酸よりも直接細胞機能を表す指標であり、研究で細胞の挙動について深い洞察が得られる” (シングルセルオミクスの基本を理解する | Cytiva).
- 【71】 KAKEN研究課題 (財津ほか, 2021〜), 「生体マウス脳の時空間メタボローム解析法」, 新規質量分析法PESI/MSを用い生きたマウスの脳をリアルタイム計測し、胎児マウス脳のストレス脆弱部位や脳腫瘍が正常組織に与える影響を時空間解析で明らかにすることを目指す (KAKEN — 研究課題をさがす | リアルタイム質量分析による生体マウス脳の時空間メタボローム解析法の開発と実証評価 (KAKENHI-PROJECT-21H03793)).
- 【72】 日本電子 JEOL, 「msFineAnalysis AI」, EIとソフトイオン化で得た2つのマススペクトルを統合解析するAIソフトを2018年にリリース (未知物質構造解析ソフトウェア msFineAnalysis AIにおけるAI構造 …); 島津製作所 「Peakintelligence」, 高度なAI技術で波形処理を行いピーク検出を自動化 (有識者に聞く! AI技術を用いたMSデータ解析の効率 … – 分析計測機器); MI-6技術記事, GC/LC-MSでは膨大なスペクトルデータが生成され解析対象データ量が非常に大きく、従来の手法では困難なため機械学習の応用が進んでいる (GC-MSおよびLC-MSデータ処理における機械学習の応用 | miLab – MI-6).
- 【31】 Fortune Business Insights, 「質量分析計市場分析レポート(和訳)」, 2018年の世界質量分析計市場は55億1,220万ドル、2026年には100億4,470万ドルに達すると予測されCAGR7.8%で成長 (質量分析計市場規模、シェア、動向、成長レポート2030).
- 【33】 Mordor Intelligence / GMI (市場調査), 世界の質量分析市場主要プレーヤー例: Agilent, LECO, Danaher(SCIEX), PerkinElmer, Watersなど (質量分析市場の規模とシェア分析 -産業調査レポート -成長トレンド); QYResearch (2023), 世界の質量分析装置主要企業: AB Sciex (Danaher), Bruker, Thermo Fisher, Agilent, Waters, PerkinElmer, 島津など (質量分析装置―グローバル市場シェアとランキング、全体の売上と …).
- 【37】 Wikipedia「サーモフィッシャーサイエンティフィック」, 2022年時点で世界125,000人以上の従業員と約449億ドルの収益を計上 (サーモフィッシャーサイエンティフィック – Wikipedia).
- 【38】 Agilent社 会社概要, 2024年度の同社売上高は65億1000万米ドル (会社情報: アジレントについて – Agilent); Waters社 日本法人サイト, 2023年末時点の同社売上高29.6億ドル、従業員約8,000名 (日本ウォーターズ株式会社 会社概要 – Waters Corporation).
- 【41】 島津製作所 「業績ハイライト」, 2024年3月期の連結売上高は初めて5,000億円を突破し5,119億円 (連結業績ハイライト – 島津製作所).